その8
「私が考案したものだ」
しばらくすると音はだんだんと消えていったらしく、ついには何もかもが死んだように静まり返ったので、アリスはふと不安になって顔を上げました。あたりには誰一人見当たらなかったので、まず頭に浮かんだのは、きっと夢を見てたんだ。ライオンやユニコーンや、あの変てこなアングロ・サクソンの使いの者たちの夢を、ということでした。ところが足元にはまだ、あの大きなお皿がありました。プラム・ケーキを載せて切ろうとしていたお皿です。「じゃあ、やっぱり夢じゃなかったんだ」アリスは心の中でつぶやきました。「ただし――ただし私たちがみんな、同じ夢の一部じゃなければだけど。せめて私の夢で、赤のキングのじゃなければいいな! ほかの人の夢の一部だなんて嫌よ。赤のキングを起こしに行って、どうなるか見てみたいわ!」 その時、大きな叫び声がして、アリスの考えはさえぎられました。「やーぁ! やーぁ! アリスはびっくりしましたが、その時は自分のことよりナイトのことの方が心配で、馬に乗り直す間もちょっと不安な気持ちでじっと見ていました。鞍に落ち着くなり、ナイトはあらためて宣言しました。「おまえは私の――」が、そこでまた別の声が割って入りました。「やーぁ! やーぁ! 今度は白の 「この娘は我が捕虜であるぞ!」ようやく赤のナイトが言いました。 「さよう。だが、この私が、救いにまいったのだ!」白のナイトが答えます。 「良かろう、ならば我らは戦わねばならん」そう言って赤のナイトは兜を取り上げると(鞍から吊り下がっていて、馬の頭の形をしていました)、頭にかぶりました。 「決闘のルールには、むろん、従うだろうな?」白のナイトもそう言って兜を着けました。 「常に従っておる」と赤のナイト。そして二人は棍棒でガンガンと、それはすさまじい殴り合いを始めたので、アリスは巻きこまれないように木の陰に隠れました。 「だけど、決闘のルールって、何なんだろ?」アリスは隠れ場所からおそるおそる顔をのぞかせて、戦いを見守りながらつぶやきました。「一つは、攻撃が当たったら、相手は馬から落ちる。で、はずしたら、自分の方が落ちる、ってことみたい――それにもう一つは、棍棒は両手で抱えて持つ、ってことみたい。まるでパンチとジュディのお人形劇ね――すっごい音を立てて落ちるなあ! まるで火かき棒や火箸なんかを、丸ごと全部、炉格子の上に落っことしたみたい! なのにお馬さんたちの方は本っ当に静かね! 乗っても落ちてもじっとしてて、まるでテーブルみたい!」 もう一つのルールは、アリスは気づきませんでしたが、常に頭から落ちる、ということのようでした。そしてそんなふうに二人ともが並んで落ちたところで決闘は終わりました。二人は再び立ち上がると、今度は握手をして、そのあと赤のナイトが馬に乗って走り去っていったんです。 「実にあっぱれなる勝利だったろう?」白のナイトが息を切らしてこちらにやってきながら言いました。 「分からないけど」アリスは「そうかなあ」といった感じで言いました。「私は誰の捕虜にもなりたくないの。クイーンになりたいの」 「そうなるよ、次の小川を越えたらね。森を抜けるまで私が無事に見送ってあげよう――そのあと引き返さなくちゃならないんだよ。それで私の指し手は終わりだ」 「どうもありがとうございます。兜を脱ぐの、お手伝いしましょうか?」どうも自分一人ではなかなかうまくいかないようだったんです。でも、やっとのことで、アリスはなんとかナイトを兜からゆさぶり出しました。 「これで息がしやすくなった」ナイトはぼさぼさの髪を両手で後ろになでつけながら、そのおっとりした顔と大きなやさしい目をこちらに向けて言いました。こんなおかしな恰好の兵隊さん、生まれてはじめて見た、とアリスは思いました。 ナイトはブリキでできたよろいを身に着けていましたが、ちっとも体に合っていないみたいでしたし、おかしな形をした小さな木の箱を、上下さかさまに、ふたをぶらんとあけたまま、両肩に結わえつけて背負っていたんです。何なんだろう、と、アリスはひどく気になって、その箱を見つめました。 「私の小箱に感心してるんだね」ナイトが気さくな調子で言いました。「私が考案したものだ――着替えやサンドイッチを入れておくためにね。ほら、さかさにして持ち運ぶんだ。だから雨が入ることがない」 「でも、物が出ることはあるわ」アリスはやんわりと言いました。「ふたがあいてるのは、ご存じ?」 「知らなかった」そう言うナイトの顔にちょっぴりくやしそうな色がよぎりました。「それじゃ中の物はみんな落ちてしまったわけだ。となると、中身がないんじゃ箱にも用はないな」そう言って箱の結わえを解くと、それを茂みに投げ捨てようとしましたが、ちょうどその時、ふいに何かを思いついたらしく、その箱をていねいに木にくくりつけました。「どうしてああしたか分かるかね?」ナイトはアリスに言いました。 アリスは首を横に振りました。 「あの中にミツバチが巣を作るかもしれないと思ってね――そうしたらハチミツがとれる」 「でも、ハチ籠を――って言うか、そんなふうな物を――鞍にくくりつけて持ってるじゃない」 「ああ、あれはとても上等なハチ籠だ」ナイトは不満げな口振りで言いました。「最高級の物だ。だが、まだ一匹のミツバチも寄ってきたことがないんだ。それともう一つの方はネズミ捕りだ。きっとネズミがミツバチを寄せつけないんだろう――それともミツバチがネズミを寄せつけないのか、どっちかは分からないが」 「ネズミ捕りは何のためかな、って思ってました。お馬さんの背中にネズミが出るって、あんまりありそうにないし」 「あまりありそうにはないかもしれないが、もしも実際に現れた場合、そこら中をチョロチョロ駆け回られたくはないんだよ」 ナイトは一呼吸置いて、さらに言いました。「なにしろ、どんなことにも備えはあった方がいいからね。馬の足にみんな足輪をはめてあるのも、そういうわけだ」 「でも、それって何のため?」アリスはひどく気になったようにたずねました。 「サメに咬まれた時の用心だよ。それも私が考案したものだ。さてと、馬に乗るのに手を貸しておくれ。森を抜けるところまで案内してあげよう――あれは何の皿かな?」 「プラム・ケーキのお皿よ」 「持っていった方がいいな。プラム・ケーキを見つけた時に役立つだろう。この袋に入れるのを手伝っておくれ」 これにはかなり時間がかかってしまいました。アリスはとてもしっかりと袋の口を開いてあげていたんですが、お皿を入れようとするナイトの方があまりにも不器用だったんです。はじめの二、三回なんて、お皿じゃなくて自分の方が袋にころげこんでしまう始末でした。ようやくお皿が入ると、ナイトは言いました。「ちょっときつくてね。袋の中にはろうそく立てが山ほど入ってるんだ」そして袋を鞍に吊り下げましたが、鞍はもうニンジンの束や、火かき棒や火箸ののたぐいや、そのほかたくさんの物でいっぱいでした。 出発すると、ナイトはまた話し始めました。「お嬢ちゃんは髪の毛はしっかり留めてあるかね?」 「いつも通りにですけど」アリスは笑みを浮かべて言いました。 「それじゃ充分とは言えないな」ナイトは心配そうに言いました。「なにしろこのあたりは風がものすごく強いんだよ。それこそ髪の毛がみんな吹っ飛んでしまうぐらいハゲしいんだ」 「そうならないようにする方法は考案したんですか?」 「まだだ。でも、髪の毛が抜け落ちないようにする方法ならある」 「ぜひ、聞きたいです」 「まず、長い棒を用意してまっすぐに立てる。それからその棒に髪の毛を上向きに這わせて巻きつけるんだ。ぶどうのつるが伝い上がるみたいにね。要するに、髪の毛が抜け落ちるのは、それが下向きに垂れるからだ――上向きには物は絶対落ちないだろう? この方法も私が考案したものだ。良ければお嬢ちゃんもやってみていいよ」 いい方法には聞こえないけど、とアリスは思い、そのアイデアについてあれこれ考えながら、しばらくは黙ったまま歩いていきました。でも、時々、情けないナイトを助けてあげるために立ち止まりました。明らかにナイトは馬に乗るのが得意じゃなかったんです。 馬が立ち止まるたんびに(しょっちゅうでした)ナイトは前に落ち、再び歩き出すたんびに(たいていちょっと急でした)後ろに落ちました。それ以外は、時々横に落ちる癖がある、ということを除けば、まあまあうまく乗っていたんですが、この横っていうのが、たいていアリスの歩いている側だったので、ほどなくアリスは、お馬さんのあんまりすぐ近くは歩かないのが一番だな、と気がつきました。 「お馬の練習をあまり積んでないんじゃないですか?」ナイトが五度目にころげ落ちた時、アリスは助け起こしてあげながら、思いきって言ってみました。 そう言われてナイトはとてもびっくりしたらしく、ちょっぴり気分も害したようでした。「どうしてそんなことを言うんだね?」と、鞍によいしょと戻ってたずねます。反対側に落ちないように、片手でアリスの髪の毛をつかんでいました。 「だって、誰だってうんと練習を積んでたら、そんなにしょっちゅう落っこちないもの」 「私は練習はたっぷり積んでいる。たっぷりとだ」ナイトは大まじめに言いました。 アリスは「ほんとに?」よりもましな言葉を何も思いつけなかったので、できるだけ明るく言いました。二人はこのあと少しばかり口をきかずに進んでいきましたが、ナイトは目を閉じて何やらぶつぶつとひとりごとをつぶやいており、アリスはいつまた落っこちるかと不安げに様子をうかがっていました。 と、突然ナイトが大きな声で、右手を振りながら言い始めました。「最も重要な乗馬の技術はだ、バランスを――」ここで言葉は始まったのと同じように突然途切れました。ちょうどアリスの歩いていた先に、ナイトが頭のてっぺんからまっさかさまにドサッと落っこちたんです。今度はアリスもかなりギョッとしてしまい、ナイトを馬に乗せてあげながら、心配そうに言いました。「骨は折れてないですよね?」 「どうってことはない」ナイトは骨の二本や三本、折れても気にはしない、とばかりに言いました。「最も重要な乗馬の技術はだ、さっきも言いかけたように――バランスをしっかりと保つことだ。こんなふうにね――」 ナイトは手綱を放し、実際にやってみせようと両腕を大きく広げましたが、今度は仰向けにばったりと、馬のすぐ足元に落ちてしまいました。 「たっぷりと練習した」ナイトは再びアリスに立たせてもらいながら、その間ずっと繰り返していました。「たっぷりと練習した」 「もう、お話しにもなんないわ!」今度はもう、どうにも我慢ができなくて、アリスは大声で言いました。「車の付いた木馬にでもすればいいのよ、ほんとにそうよ!」 「そのタイプはスムーズに進むのかね?」ナイトはたいへん興味をそそられたようにたずねました。またもやころげ落ちそうになりましたが、両手で馬の首にしがみついて、危うくまぬがれます。 「生きてるお馬さんよりずっとスムーズにね」そう言いながらアリスは小さく声を上げて笑ってしまいました。せいいっぱいこらえたんですが、こらえきれなかったんです。 「一つ手に入れよう」ナイトは思案顔でつぶやきました。「一台か二台――数台だな」 そのあと少しだけどちらも黙っていましたが、すぐにまたナイトが話し始めました。「私は考案することが大の得意なんだ。それでね、たぶんお嬢ちゃんも気がついたろうが、さっき助け起こしてくれた時、私は少しばかり考えこんでいる様子だったろう?」 「ちょっとまじめなお顔を、してました」 「そう、ちょうどあの時、私は木戸を乗り越える新しい方法を考案してるところだったんだ――聞きたいかね?」 「それはもう、ぜひ」アリスは失礼のないように言いました。 「私がどんなふうにしてそれを考えついたのか教えてあげよう。いいかね、私はこう思ったんだ。『唯一の問題は足にある。頭はもう充分に高い』そこで、まず頭を木戸の一番上に乗せる――これで頭は充分に高い――次に、その頭を下にして立つ。倒立だ――これで足も充分に高いだろう――次には乗り越えてる、というわけだよ」 「ええ、そんなふうにいけば、きっと乗り越えてるでしょうね」アリスは言葉を選びながら言いました。「でも、それってけっこう難しいと思いません?」 ナイトはまじめな顔をして言いました。「まだためしてないから、はっきりとは言えないが――ちょっと難しいかもしれないなぁ」 そう思ってしまったことをナイトがとても悔しがっているみたいだったので、アリスはあわてて話題を変えました。「とっても変わった兜をお持ちですね!」と明るく言います。「それもご自分で考案したものなんですか?」 ナイトは鞍に吊り下げてあった兜を自慢げに見おろしました。「ああ、そうだ。だが、これよりもっといいのを考案したこともある―― ナイトが大まじめに話しているようだったので、アリスも笑うわけにはいきませんでした。「きっとその人も痛い思いをしたでしょうね。頭のてっぺんにあなたがいたんだもの」と、今にも吹き出しそうなふるえ声で言います。 「むろん、その者を蹴るしかなかった」ナイトはまじめくさった顔で言いました。「するとまた兜を脱いだが――私を引っぱり出すのには何時間もかかったんだ。私はピシャッとはまりこんでたんだよ――稲妻のようにピシャッとね」 「でも、それって別の意味のピシャッとよ」 ナイトは首を振りました。「私にとってはあらゆる意味でのピシャッとだった、断言できる!」そう言いながら、多少気が高ぶって両手を振り上げたので、たちまち鞍からころがり落ちて、まっさかさまに深い溝の中に落ちてしまいました。 アリスはナイトを見つけに溝に駆け寄りました。ここしばらくはとてもうまく乗っていたので、この落馬にはかなりギョッとしてしまい、今度こそホントにケガしちゃったんじゃないかな、と思いました。でも、両足の靴底しか見えなかったものの、普通の声でしゃべっているのが聞こえたので、本当にホッとしました。「あらゆる意味でのピシャッとだった」とナイトは繰り返しました。「しかし、人の兜をかぶってしまうとは、あの者もそそっかしい――しかも当人を入れたままとは」 「どうしてそんなに落ち着いてしゃべってられるんですか? さかさになってるのに」アリスはそう聞きながら、足をつかんでナイトを引きずり出すと、その場にどさっと横たえました。 ナイトはそう聞かれたことに驚いたようでした。「たまたま体がどうなってようと、それがどうしたと言うんだね? 私の頭はそれでもずっと働いてるぞ。それどころか、頭が下に向けば向くほど、私は新しいものを次々に考案できるんんだ」 一息ついてから、ナイトはさらに言いました。「ときに、これまでに考案した中で最も冴えてたのは、ディナーでの肉料理の間に、デザートの新しいプディングを考案したことだ」 「次のデザートに作ってもらうのに間に合うように? へえ、それはほんとに早業ね!」 「ああ、いや、次の、デザートじゃない」ナイトはもたもたと、歯切れ悪く言いました。「そう、もちろん、次のデザートというわけじゃない」 「じゃあ、次の日になったはずですね。一回のディナーで、デザートは二度も出ないでしょう?」 「いやあ、次の、日でもない」ナイトはさっきと同じように繰り返しました。「次の日というわけでもないんだ。実のところ、あのプディングが、これまでに作られたことはないと思う」うつむいたまま、声がだんだんと小さくなっていきます。「それどころか、あのプディングは、これからも作られることはないと思う。それでも、あのプディングの考案は実に冴えてたんだ」 「どんな材料でこしらえるプディングなの?」アリスはナイトの気持ちを引き立ててあげたくてたずねました。かわいそうに、この件ではかなり気落ちしているみたいだったんです。 「まず、吸い取り紙だ」ナイトはうなるような声で答えました。 「あんまりおいしくなさそうだけど――」 「それだけじゃあまりおいしくないが」けっこう真剣に口をはさみます。「ほかのものを混ぜ合わせるとどんなに変わるか、想像もつかないだろう――たとえば火薬とか封蝋とか。さて、ここでお別れしなくちゃならない」ちょうど二人は森の端までやってきていたんです。 アリスは思わず「えっ」という顔になりました。プディングのことを考えていたんです。 「悲しそうだね」と、ナイトが気遣うように言いました。「慰めに歌を歌ってあげよう」 「それ、とても長いですか?」とアリスは聞きました。その日はもうたっぷりと詩を聞いていたからです。 「長いよ。だが実に、実に美しいんだ。私が歌うのを聞く者は誰もが――その目に涙を浮かべるか、そうでなければ――」 「そうでなければ、何?」ナイトがふいに言葉を止めたので、アリスは言いました。 「そうでなければ、浮かべないかだね。この歌の題名は『タラの目』と呼ばれてる」 「あぁ、それがその歌の題名なのね?」アリスは興味を持とうとして言いました。 「そうじゃない、分かってないね」ナイトが言いました。ちょっとじれったそうです。「これは題名がそう呼ばれてるっていうことだ。題名は実際には『老いた老人』だ」 「じゃあ、『その歌はそう呼ばれてる』って、言えば良かった?」アリスは言い直しました。 「いやいや、良くはない。それはまた全然別の話だ! 歌は『方法や手立て』と呼ばれてる。だが、これもただ、そう呼ばれてるっていうだけのことなんだよ!」 「えっと、じゃあ、その歌は何なんですか?」アリスにはもう何が何だかわけが分かりませんでした。 「それを言おうとしてたんだ。この歌は実際には『木戸に腰かけて』だ。そしてメロディーは私が考案したものだ」 そう言ってナイトは馬を止めると、手綱を馬の首に預けました。それから片手でゆっくりと拍子を取りながら、そのおっとりした顔にやわらかな笑みを明るく浮かべて、まるで自分の歌の調べを楽しむかのように歌い始めました。 鏡の向こうでの旅でアリスが目にしたあらゆる風変わりなもののうち、これがいつでも一番はっきりと思い出せるものでした。何年も経ってからも、まるでついきのうのことのように、アリスにはこの場面をそっくりよみがえらせることができたんです――ナイトのやさしい青い目とあたたかなほほえみ――その髪を透かしてきらめいている、そして目もくらむほどまぶしくよろいに照り映えている夕日――手綱を首からだらりと垂らしたまま、静かに体をめぐらしながら、こちらの足元の草を食んでいる馬――そして後ろの森の黒い影――こういったすべてをアリスは一枚の絵のように目に焼き付けたんです。片手でまぶしい光をさえぎりながら木にもたれ、その風変わりな一人と一頭を見守りながら。そして物悲しい歌の調べを、なかば夢見心地で聞きながら。 「でも、メロディーはこの人の考案したものじゃないな。これって『我が心とリュート』よ」とアリスは思いました。そして耳を傾けてじっくりと聞きましたが、涙はいっこうに浮かんではきませんでした。
ナイトは 「もちろんお待ちします。それにこんなに遠くまで来てくれて、本当にありがとうございました――それとお歌も――とっても良かったです」 「だったらいいが」ナイトは疑わしそうに言いました。「思ったほどお嬢ちゃんは泣かなかったね」 そして二人は握手をしました。それからナイトはゆっくりと森の中へ去っていきました。「あの人が鞍とお別れするのには、そんなに時間はかかんないだろうな」アリスはナイトを見送りながらつぶやきました。「ほらやった! 相変わらずまっさかさま! でも、割と簡単に乗り直してる――お馬さんのまわりにいっぱい物がぶら下がってるおかげだな――」そんなふうにアリスはずっとひとりごとを言いながら、馬がのんびりと道を歩いていくのを、そしてナイトがまずこっち、次はあっちところげ落ちるのを見守りました。四、五回ころげ落ちた末にナイトが曲がり角までたどり着くと、ハンカチを振ってあげて、姿が見えなくなるまでじっと待ってあげました。 「励みになったならいいけど」そう言ってアリスは坂を駆けおりようとくるりと向きを変えました。「さあ、最後の小川だ。そしてクイーンになる! 素敵な響きだなぁ!」ほんの何歩かでアリスは小川のふちに着きました。そして小川を跳び越えようとしたまさにその時、アリスの耳に深いためいきが聞こえました。どうやら後ろの森から聞こえてきたようです。 「あっちに誰かすごく悲しんでるヒトがいるんだ」そう思ったアリスは、どうしたんだろうと心配そうに後ろを振り返りました。とっても年を取ったおじいさんみたいな(ただ、顔はスズメバチみたいな)誰かが地べたに座っていて、木にもたれ、体をぎゅっと丸めて縮こまり、とても寒がっているみたいにぶるぶるふるえています。 「私じゃきっと、何の役にも立てないな」はじめはそう思って、小川を跳び越えようと背を向けたんですが――「でも、どうしたのかだけ聞いてみよう」と、ぎりぎりのところで思いとどまりました。「一度跳び越えちゃったら、何もかも変わっちゃうし、そしたらもう、助けてあげられないもの」 そうしてアリスはスズメバチおじいさんのところに引き返しました――かなりしぶしぶとです。早くクイーンになりたくてしかたがなかったんです。 「あぁ、このポンコツの体め、このおんぼろめ!」近くまで行ってみると、スズメバチはぶつぶつと不平をこぼしていました。 「リユーマチじゃないかな」とアリスは思い、スズメバチの上に身をかがめると、とてもやさしく言いました。「とてもお痛みなんでしょうか?」 スズメバチは肩をふるわせただけで、ぷいとそっぽを向いてしまいました。「あぁ、まったくもう!」とつぶやきます。 アリスはさらに言いました。「何かお役に立てることはありますか? ここじゃちょっと寒くありませんか?」 「よくしゃべるこった!」スズメバチは不機嫌そうに言いました。「ああだの、こうだの! こんな子供は見たことないわい!」 この返事にはアリスもかなりカチンと来てしまい、もう今にもスズメバチをほっぽって行ってしまいそうになりましたが、「もしかしたら、痛みのせいですごく機嫌が悪いだけなのかも」とも思ったので、もう一度話しかけてみました。「お手伝いしますから、木の反対側に回りませんか? そっちなら冷たい風が当たらないですよ」 スズメバチはアリスの腕につかまると、助けを借りて木の反対側に移りました。でも、再び身を落ち着けると、さっきと同じようにこう言っただけでした。「ああだの、こうだの! ヒトのことをそっとしておけんのかい!」 「これ、ちょっとお読みしましょうか?」アリスはスズメバチの足元に置いてあった新聞を取ってきて言いました。 「読みたきゃ読みゃいい」スズメバチはかなりふてくされて言いました。「誰も邪魔はしとらんよ、わしの知っとる限りはな」 そこでアリスはスズメバチの隣に座ると、ひざの上に新聞を広げて読み始めました。「最新ニュース。探検隊は食料貯蔵室に再度の遠征を行い、新たに白砂糖のかたまりを五個発見した。大きく状態も良好である。帰途――」 「黒砂糖は?」スズメバチが口をはさみました。 アリスは急いで記事に目を走らせると言いました。「いいえ。黒砂糖のことは何も書いてないです」 「黒砂糖がない!」スズメバチは不満そうに言いました。「ご立派な探検隊じゃ!」 アリスは記事を読み進めました。「帰途、一行は糖蜜の湖も発見した。湖岸の色は青と白で、磁器のようであった。その糖蜜を試飲中、痛ましい事故が発生した。隊員が二名でき死したのである――」 「隊員がどうしたって?」スズメバチがひどく不機嫌な声でたずねました。 「二名で、き死、したのである」アリスは言葉を区切って繰り返しました。 「そんな言葉はありゃせんわい!」 「この新聞にはそうあるんですけど」アリスはちょっとおどおどして言いました。 「もうそこまででいい!」スズメバチは気難しそうにそっぽを向いて言いました。 アリスは新聞を置くと、慰めるように言いました。「お加減が良くないみたいですね。何か私にできること、ありませんか?」 「みんなかつらの 「かつらのショイ?」アリスは聞き返しながら、機嫌が直ってきた、と、ちょっと嬉しくなりました。 「誰でも不機嫌になるじゃろうさ、わしのみたいなかつらを着けてりゃな。みんなしてからかいよる。そしていじくりよる。そんでわしは腹を立てる。で、邪険になる。で、木の下に引っこむ。で、黄色いハンカチを出す。で、ほっかむりしてしばる――今みたいにな」 アリスは気の毒そうにスズメバチの顔を見つめました。「お顔をしばるのは 「それにウヌボレにも実によく効くわい」 アリスにはその言葉がちゃんとは聞き取れませんでした。「それ、歯痛みたいなもの?」 スズメバチは少しばかり考えました。「いやぁ、そうじゃありゃせん。頭をもたげてふんぞり返っとる時なんじゃが――で―― 「あぁ、つまり 「K2とは今どきの言い方じゃな。わしらの頃はうぬぼれと言っとった」 「うぬぼれは全然病気じゃないわ」 「いやいや、ビョーキじゃよ。おまえもなってみりゃ分かる。で、かかった時は、黄色いハンカチを顔に巻いてしばってみりゃいい。あっと言う間に治っちまうわい!」 スズメバチはそう言ってハンカチをほどき、アリスは目にしたかつらにびっくりしてしまいました。ハンカチと同じような派手な黄色で、それが海藻の山みたいにもつれてぐしゃぐしゃになっていたんです。「もっと、ずっときれいにできるでしょうね。おじいさんも、 「何じゃと、おまえ、ミツバチなのか?」スズメバチはそれまでよりも興味深げにアリスを見て言いました。「で、おまえは蜜をためる 「その 「どうしてこいつを着けるようになったのか、話してやろう。わしも若かった頃はじゃな、巻き毛が波打っとったもんじゃ――」 アリスは面白いことを思いつきました。出会ってきた相手がほとんどみんなそうしてくれていたので、スズメバチさんも詩を暗唱してくれないかな、聞いてみよう、と思ったんです。「あの、そのお話、詩にして言っていただいてもいいですか?」アリスはとても礼儀正しく頼みました。 「そういうのはわしは慣れとらんのじゃが。ともかく、やってみよう。ちょいと待っとくれ」スズメバチは少しの間、黙っていてから、あらためてこんなふうに始めました――
「本当にお気の毒ね」アリスは心からそう言いました。「それに、そのかつらがもうちょっとぴったりしてたら、みんなもそんなにひどくははからかわないと思うわ」 「おまえのかつらは実にぴったりじゃなぁ」スズメバチは感心した様子でアリスを見てつぶやきました。「頭の形のおかげじゃな。あごの形は良くないが――うまいこと噛めんのじゃないか?」 アリスは最初、ちょっと声を上げて笑ってしまい、なんとか咳にしてごまかしました。そしてやっとのことで、どうにかまじめな顔をして言いました。「噛みたいものは何でも噛めます」 「そんな小さな口じゃ無理じゃよ」スズメバチは言い張りました。「もしも喧嘩をしとったらじゃぞ――相手の首根っこをその口で捕まえられんのかい?」 「無理でしょうね」 「そらな、口が小さすぎるからじゃ。しかし頭のてっぺんは見事に丸いのぅ」そう言ってスズメバチは自分のかつらを取ると、アリスにも同じようにしたいと言わんばかりに鉤爪の付いた足を一本伸ばしてきました。でも、アリスは届かない距離を保って知らんふりをしていました。するとスズメバチさらにあれこれと言ってきました。 「それから目じゃが――前の方に寄りすぎとるのは確かじゃな。一つで二つ分の用が足りちまったじゃろう、そんなに二つがくっついてなくちゃならんのじゃったら――」 アリスはそんなにあれこれ自分のことを言われたくありませんでしたし、スズメバチもすっかり機嫌が直っていて、とてもおしゃべりになってきていましたから、もう 「さいなら、それと、ありがとよ」とスズメバチが言い、アリスは軽やかにまた坂を駆けおりていきました。気の毒なおじいさんにやさしくしてあげるために、戻ってちょっとだけ時間を使ってあげて本当に良かった、と思っていました。 「ついに8マス目だ!」アリスは大声を上げて小川をぴょーんと跳び越え、
そして苔のようにやわらかな芝生の上に、ごろんと横になって休みました。あちらこちらに点々と小さな花壇があります。「あぁ、ここまで来られてほんっとに嬉しいなぁ! でも、何これ、頭の上に?」アリスは驚きの声を上げ、何やらずしりと重たい、頭にぴったりとはまっているものに手をやりました。 「だけど、どうやって私の知らないうちに載ったんだろ?」アリスはそう思ってそれを持ち上げて外すと、いったい何なのか見るためにひざの上に置きました。 それは黄金の冠でした。
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