その他

 

� 屮Ε汽�を追いかけるアリス」「ウサギ穴を落ちるアリス」「ガラスのテーブルを登ろうとするアリス」「幹部会競争(コーカス・レース)の様子」「首が伸びたアリスとハト」「皿を投げつけるコック」「クロッケー場全体の様子」「本来のエビダンス(ロブスター・カドリーユ)の様子、またはその詩の挿絵」「鎮静されるヤマネ」「インクびんを投げつける女王様と当てられたビル」「夢を見るお姉さん」

 これらのシーンの共通点は、いずれもテニエルのイラストには(あっても良さそうなのに)ないシーンだということ。

『地下』でのキャロル自身のイラストには「首が伸びたアリスとハト」と「クロッケー場全体の様子」はある。

「首が伸びた」に関しては、2章はじめのイラストがそのようにも見えるので、似たようなイメージのイラストを避けたのかもしれない。

 実際、このイラストを「首が伸びた時の絵」として記憶している人もいるかと思う。

 テニエルのイラストは子供の頃はちょっと気味悪く感じたし、中でもこの絵はかなり不気味度の高い方だったので、実際にテニエルが「ハト」のシーンを描いていたら、ちょっと怖すぎたかもしれない。

「アリス物語」はさまざまな画家が挿絵を描いているが、今でもその中心となっているのはやはりテニエルのものだろう。

 ディズニーのアニメーションのキャラクターも、おおもとのイメージにはテニエルのイラストがあって(たぶん)、それに独自のアレンジを加えているものなので、よく知らない人には区別がついていなかったりもするみたいだ。

 私自身は安野光雅氏の描くフシギの国や、高野文子氏によるアリスをはじめとするキャラクターたちの絵を見てみたいと思っている。(*安野光雅氏は2020年12月24日にお亡くなりになりました。数々の素晴らしい作品に感謝いたします)

 ところで『フシギ』のテニエルのイラストのアリスは、やけに美少女風だったり、反対に幼顔だったりと、安定していないように思えるが、これは意図的なものなのか、それとも単に落ち着かなかったのか、どちらだろう。 

 

�◆仝矯遒蝋イ�でもディズニーのアニメーションの方は嫌いという人はけっこういるようだ(もちろん逆もあるだろうが)。

 ドタバタギャグは原作にもある部分だが、それが強調されていること、ゆえに品があるとは言い難い、というのも理由の一つだろう。

 公開当時などははっきり「下品」と思われたんじゃないだろうか。スカートもよくめくれるし(パンチラするわけじゃないが)。

 ただ、言葉遊びは以外に多く、チェシャ猫に「ジャバウォッキー」を歌わせるという勇気のほかにも、オリジナルの言葉遊びを台詞や歌に交ぜているし、言葉のジョークを絵や行動で表すということもやっているようだ。

 そういったジョークも含めて、作中に盛り込まれたアイデアの多さということでは、これほどのものはそうそうないんじゃないだろうか。

 好き嫌いに関してはどちらに先に接したかでも違ってくるのかもしれない。

 ディズニーアニメの方はなんとなく知っているが原作は読んだことがないという人の方が多いだろうが(今ではティム・バートンの『アリス・イン・ワンダーランド』の方がメジャーになっているかもしれない)、実際に映画を見た人のほかにも、ディズニー絵本やキャラクターグッズなどでなじんだ人が多いらしい。

 私自身は子供の頃に本編を見ていて、お茶会のシーンで帽子屋がカップを切るところとか、森の中でおかしな生き物たちが現れるところとか、迷路のようなところでトランプの兵隊たちに追いかけられるシーンなど、部分的に覚えていた。

 原作がそれとはずいぶん違った趣のものらしいということを知ったのはかなりあとになってからで、学校の図書館でぱらぱらめくってみたものの、その時はまだそれほどの興味は起きなかった。

 本格的に興味を覚えたのは、内井惣七氏の『パズルとパラドックス』と、織田正吉氏の『ジョークとトリック』を読んでからで、前者はキャロルをとっかかりにして論理学へといざなっている本で、本全体も面白いのだが、タートルの先生がトータスと呼ばれていた、というところを、こうした方が面白いんじゃない?といった感じで独自の訳を載せていたこと、後者では海の学校の教科のジョークなどを取り上げて、「『ふしぎの国のアリス』は『しゃれの国のアリス』である」とした上でさまざまな訳を紹介したあと、「もしかすると、シェークスピアもキャロルも、しゃれが伝わらないから、良書として学校図書館に常備されているのではないかというのがわたしの勘ぐりである」と書かれていたことが面白くて興味を持った。

 

��『アリス』にはブラックなユーモアが多いのだが、あっけらかんとしていて、あまりダークな印象を受けないのも特徴だと思う。

 フシギの国もお伽の国と言うより現実の大人の世界のカリカチュアととれるが、批評的な印象はあまり受けず、ジョークを展開するための土台として利用しているだけのように思える。

 だから『鏡』になると淋しげな感じもただよってくるものの、『フシギ』の方は私には単におもしろおかしい話といった印象が強かったのだが、楠本君恵氏は『出会いの国の「アリス」』の中で、これら二作品をもっと能動的な思いを込めた書として捉えていて、私の捉え方は表面的に過ぎるかな、とも思っている。

 

�ぁ.�ャロルがいわゆるロリータ・コンプレックスかどうかという議論にはほとんど興味がないが、『アリス』を読んだ限りでは、いわゆる萌えの要素はあまり見受けられないし、男が勝手に思い描いたり夢見たりするところの少女像とはかけ離れたもののように思える。むしろキャロル自身の方が女性的な風貌なので、自分の中の子供っぽい部分とか女性的な部分などを取り繕わずにつきあえる相手が少女たちだったのかな、という気がした。

 また、楠本君恵氏の話では、キャロルとの親交が長く続いた女性たちには専門的な技能を身につけて職業につこうとした女性が多く、キャロルもまたそういったことを支援したりもしていたそうだ。

 番組やドラマ、映画などでキャロルをとりあげる時には、キャロルのそういった面や、また、それらの女性たちがキャロルから実際にどのような影響や支援を受けたのか、そしてどんな人生を送ったのか、そういったことにも触れてほしいと思っている。

 

�ァ,箸海蹐如△海虜酩覆�発表された時、日本は幕末で、坂本竜馬が亀山社中を興したりしている頃だ。

 イギリスはと言うと、同年、フランス、アメリカ、オランダとの連合艦隊で威圧しながら、兵庫港の開港要求をしたりしている。

 なんとなく不思議な感じ。

 

�Α〆2鵝¬�文を見直し、全面的に手を入れてみた。

 意見、感想、ミスや誤訳の指摘などいただけるとありがたい。(2016年10月1日 十(つなし)一(はじめ))

 

  

ホーム 次へ